ブコメの補足をしていきますよ。
なぜ学校の国語のテストの答えは一つなのか? - 僕と本と未来
まず、このエントリーを要約する。
- 国語の記述問題の解答で×をもらった
- それはおかしい
- そもそも学校で勉強する内容に価値があるのか
- 思考力をきたえるなら、学校でなくてよい
- 知識はネットに転がっている
- 勉強以外でも評価されるべきだ
- 勉強以外が得意で生計を立てている人だっている
- だから興味があるものをとことん追求する姿勢を親は大切にした方がよい
うん。素晴らしい。
ゆとり世代と呼ばれる指導要領で指導された年代にギリギリで入っている私から言わせてもらう。
やっぱりそれはおかしい。
国語は学問である
学問というからには、歴然とした答えがある。
例えば記述の問題。解答者の考えなど、どうでもいいのだ。文中の言葉を使って答えるのはもちろん、それまでの流れをきちんとトレースすることで、作者、筆者の思いや伝えたいことを過不足なく書き表していたのだろうか。そこにオレオレ解釈を入れるのは、蛇足である。
国語で基本となる力は「比べる力」「たどる力」「言い換える力」だと言われることがある。パズルのピースをはめていくように、国語にもぴったりとはまっていく解答というものがある。それから外れたとき、パズルははまらない。それは答えになり得ないのだ。
なお、それを完全に無視した悪問は存在する。業者によるペーパーテストにも、この類の悪問はある。
小学校であれば、文中に根拠を求め、文中の言葉を使いながら答えることができるかを測りたいはずだ。なのに、いきなり「気持ちを考えなさい」といった問題が出てくる。最後の方の設問として。そして、大抵その問題の解答を見ると、文中のどこにも書いていない内容だったりする。それは道徳の分野であるので、私は大きく文意から外れない限り全て正答として扱う。
以上、国語は学問だという話。
蛇足だが、正進社の国語テストは文中の言葉を抜き出させる問題が多いので、自分は好き。ただ集計ソフトはぶんけいが好き。
学校に価値が無いとか、そういう問題に関しては別のエントリーで。